日出町の歴史

更新日:2022年03月31日

城山から海を望む風景のパノラマ画像

城山からのパノラマ風景

日出町に広がる豊かな歴史

日出町の歴史の起こりは、古くは原始、旧石器時代にさかのぼります。「早水台遺跡(そうずだいいせき)」(川崎)は、縄文時代早期の集落遺跡として、また、更にその下層より発見された石器群は日本人のルーツに迫る前期旧石器論争を引き起こし、日本考古学史に刻まれる重要遺跡です。
古代、律令国家成立の下、「速見郡」「大神郷」が誕生、「会下遺跡(えげいせき)」(藤原)は官衙(かんが)関連遺跡として知られています。また、宇佐八幡宮創立の立役者と伝えられる「大神比義(おおがひぎ)」ゆかりの伝承地、「願成就寺」(藤原)を筆頭に六郷満山創始者「仁聞(にんもん)」ゆかりの寺院が各地に所在します。
中世、豊後国の守護を任された大友氏による支配の下、数々の武士勢力が台頭し、また、キリシタン・南蛮文化が花開きました。鹿鳴越城(かなごえじょう)(豊岡)は、大友氏の拠点である府内の北を守る要の支城で、周防大内氏との攻防戦が繰り広げられました。文禄 2(1593)年の大友氏除国後、慶長5(1600)年の関ヶ原の合戦を経て、翌6年に日出藩木下家の誕生、日出藩の立藩に至りました。
近世、豊臣縁故の大名日出藩木下家は、16代270年にわたり速見郡内日出3万石(後に2万5千石)を統治しました。藩祖延俊(のぶとし)は「日出城」(日出)を築城、「康徳山松屋寺(こうとくさんしょうおくじ)」(日出)を菩提寺に定め、藩の基盤を整えました。3代俊長(としなが)は文教や殖産の振興に力を注ぎ、家臣・領民より広く名君と称えられ、儒学を重んじた俊長の墓所「横津御廟」は近代以降、「横津神社」(藤原)として祭られています。俊長の文教への志は後代に受け継がれ、やがて豊後三賢の一人に称される「帆足萬里(ほあしばんり)」の輩出、藩校致道館(ちどうかん)の創立に結実しました。
近代、日出は速見郡の中枢として繁栄を遂げ、福岡県出身の実業家成清博愛(なりきよひろえ)が採掘した馬上金山(ばじょうきんざん)(杵築市山香町)は、日本屈指の産金量を誇る金山へと成長し、別邸「的山荘(てきざんそう)」(日出)を本拠に日出町・大分県の近代を広く支えました。また、太平洋戦争末期、海軍の特殊兵器「回天」の訓練基地「大神突撃隊」(大神)が開隊し、終戦にいたるまで別府湾で厳しい搭乗訓練が繰り返されました。

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