町長室から(第26回)

更新日:2022年03月31日

紫色の紋付の幕の背後に建ったお墓の様子

6月14日、168回忌帆足萬里忌辰祭が、日出町佐尾にある萬里の墓前で開催されました。当日は、工藤智弘委員長をはじめとする忌辰祭実行委員会の皆さん、郷土史愛好会、萬里を読む会、まち歩きガイドの会の皆さんなど多くの関係者が出席されました。開会前に、日出小学校の生徒を中心に参加者全員で『萬里先生賛歌』を歌い、その後、龍泉寺の山崎祐介住職による読経、参列者の焼香が行われました。

萬里は、安永7年、当時の日出藩士・帆足通文の三男として生まれ、豊岡小浦の脇蘭室をはじめ、大坂や京都の学者に学び、その後はほとんど独学で研鑽に努め、経済、物理、医学、天文などの各分野に通じていたことで知られています。また、13代藩主・木下俊敦に請われて家老職につき、藩財政の再建においても功績を残しました。

嘉永5年に75歳で亡くなるまで、教育者として多くの子弟を育て、また政治家としても大いに手腕をふるいました。そうしたことから、三浦梅園、廣瀬淡窓とともに『豊後の三賢』と称されています。

帆足萬里の史料について

こうした萬里の偉大な功績を後世に伝えるため、平成28年1月に帆足萬里記念館を開設しました。今年1月には、この記念館の展示物を充実させるために4種類の書を取得したのでご紹介します。

ひとつは、萬里が賀来佐之(すけゆき)に宛てた七言絶句の漢詩を書いた掛け軸です。箱には、『帆足萬里先生経石詩』と記されています。佐之は、萬里が医学を教えた初めての門人です。彼が萬里の下で医学を学びたいと希望したため、それまで医学を学んでいなかった萬里が自ら医学を学びながら佐之を指導するという離れ業をやってのけました。佐之は、後に島原藩医となり、シーボルトに学び、シーボルトから俊才と称えられるまでになりました。この史料からは、幼くして父親を亡くした佐之に対して、親代わりとして交流した萬里の師としての姿をうかがい知ることができます。

二つ目は、萬里の書いた習字の手本です。若干の虫食いはありますが、丁寧に書かれていて、萬里の書の特徴が良く出ています。萬里が門人の教育のために、習字の手習い本として作成したものと考えられており、萬里の教育が、あらゆる年齢の門人たちに行き届いていたことをうかがわせる貴重な史料です。

三つ目は、萬里が中国の唐代の著名な詩文を写した書です。書の奥(最後の部分)に日出藩の家老を務めた萬里の門人・米良東嶠の賞賛の言葉が記されています。東は、師たる萬里のこの書に格別の感慨を受け、家宝として大切にすべきと記しています。趣のある萬里の筆の特徴も大変よく出ていて、門人の教育において読み書きを重視した教育者萬里の横顔が垣間見える史料です。

四つ目は、12幅の掛け軸です。嘉永元年春に、京都の東福寺採薪亭(さいしんてい)という茶亭で書いたものです。ここは、その前年に萬里が脱藩し、京都に移り住んだときに住処とした庵です。京都での生活を終えて、いよいよ日出に帰藩するという時に、その心情を書き上げた、萬里にとっても日出藩の歴史にとっても重要な出来事を示す極めて貴重な史料です。それを入れる箱には、当時の『西崦精舎(せいえんせいしゃ)(注釈)』の様子が、門人の賀来飛霞(ひか)の手によって描かれています。萬里ゆかりの遺跡は非常に少ないなかで、往時の西精舎の様子をうかがい知ることのできる極めて貴重な絵画史料といえます。

これらの史料は、皆さんにご覧頂くために只今展示の準備を進めております。展示開始時には広報などを通じてお知らせいたしますので、ぜひ帆足萬里記念館に足をお運びください。

(注釈)西崦精舎
萬里が天保13年に開いた私塾で、現在の南畑目刈にありました。多い時は130人余りの塾生がいたといわれています。
塾があった場所には現在は記念碑が建てられています。
これは明治時代に地元の人々が萬里を讃えて建立したものです。記念碑には『帆足萬里先生西遺蹟』と記されています。
(注意)文中の呼称は、帆足萬里が歴史上の人物であることから、『萬里』と表現しました。

(注意)以上の内容は「広報ひじ」令和元年7月号に掲載されたものです。

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